kiichantraveler’s diary

30歳手前の分岐点。誰もが抱える思いを声にするために。

【青年海外協力隊を終えて】僕から見た外国人とは。〜外国人との向き合い方と良好な人間関係〜

近年、日本の至る所で外国人を見かけるようになりました。都市部ではもちろんのこと、片田舎の農村部にも一定数の外国人は住んでいて、彼らに出会わない日はないと言っても過言ではないように思います。

 

そんな外国人である彼らと出会ったり、すれ違ったりした際に、皆さんはどんなことを考えるでしょうか?

 

何となく日本人に近い感じがすれば、中国人かな?韓国人かな?と思ったりしますか?

 

いわゆる黒人だと、アフリカ人だ!なんて思ったり、いわゆる白人だと、ヨーロッパ人だ!って思ったり、まあざっくりはこんな感じですか?

 

 

確かに、そのイメージで当たることは多いように思います。その一方で、
『中華系〜人』や『インド系〜人』といった、例えば一見中国人に見えそうな人の国籍を聞くと、全く違うヨーロッパの国の人だったりすることが増えてきているようにも思います。

 

つまり、見たままではその人の国籍を当てることが不可能に近い場合があるということです。

 

こんな場面に遭遇する度に、『一体、国籍とは何なのか?』と思ってしまったりもします。まあ、どこの国籍だろうが別に何でもいいわけですが、全く見当違いな国名を相手に言ってしまうと若干申し訳ない気持ちになるからです。(笑)

 

また、先ほどの例に付け加えると、一見中国人かな?と思った方が実は中華系ドイツ人だったことがありました。彼女はドイツで生まれ育ったこともあり、ドイツ語がぺらぺらですし、逆に中国語は片言程度しか話せません。つまり、彼女としては中華系ということで多少の中国のルーツはあるかもしれません、顔立ちとか。でもそれ以外の面においては、僕たちが『ドイツ人』と聞いてイメージするあのドイツ人そのものです、彼女もそう思っています。だからこそ、彼女としては『中国人ですか?』と聞かれると顔立ちしか見ていないと思うそうです。

 

ただ、まあそれは仕方ないことでもあります、そもそも第一印象はまず顔から入ってくるわけですから。(笑)

 

ただ、こういった体験を聞き、実際に外国で生活していくと、案外普通のことだと分かるようにもなりました。そして青年海外協力隊として曲がりなりにも、現地での2年間の任期を終えて帰国したら、小さな変化を感じることがありました。

 

まず、街で見かける外国人がどこの人だとかいちいち気に留めなくなったこと。

 

 

先ほどの例にもあったように、国籍なんてその人を表すものとしてあってないようなものに思えます。

 

日本人の中にも、時間に正確な人もいれば、そうでない人もいるように。

アフリカ人の中にも、適当な人もいれば、きっちりしている人もいます。

 

つまり、その人を作っているのは国籍じゃなくて、その人自身。

 

こんなことは書いてみれば当たり前だし、読んでる人からすれば当然に思えるかもしれません、そんなこと知ってるに決まってるって。

 

でも、そのことをしっかり頭の片隅において、彼らと関わり、そして向き合うこと。

 

これって意外に出来そうで、出来なかったりします。

 

アフリカ人が待ち合わせに遅刻してきたのを見て、『まあ、アフリカ人は時間にルーズだからなあ』と思うのか『彼がただただ時間にルーズなだけ。もしくは、今回は遅れてしまう何かがあった。』と思うのか。前者は、やっぱり国籍やイメージや見た目のバイアス(偏見や錯覚)が入っています。

 

いかにして、自然に後者の考えが出来るか。

 

これが外国人と向き合う、そして良好な人間関係を作っていくヒントになるように思います。。。

 

 

 

 

 

話を少し戻しまして…

 

これまで青年海外協力隊としてアフリカの現地の2年間で、本当にたくさんの外国人に会う機会がありました。アフリカに住んでいたので、出会う人は基本的にはいわゆるアフリカ人と呼ばれる人たち。僕たちがアフリカ人と聞いてイメージする黒人ですね。

 

あとは、そこに僕と同じように生活している他の外国人の方々、中国人とかインド人とかヨーロッパの人とか。

 

確かに、彼らには国籍がある。ただそれ以上に今の彼らを作っているたくさんの要素がある。そんな風に考えられるようになってからは、ほとんど人間関係で悩むことはなかったです。

 

むしろそういったものの考え方は、島国というある意味閉鎖的な国で育った僕よりも、陸続きで人の移動が多い国で育った彼らの方が慣れているし、長けているようにも思います。

 

僕が、彼らを彼ら自身の要素で見るようになったら同じように、彼らも『僕を日本人として見る』以上に『僕を僕として見てくれた』ように感じました。

 

そういうのはお互いが『〜な風にお互いを見ましょう!』なんて約束しなくとも、伝わるものです。『僕を僕として見てくれ!』なんて言わなくても、彼らはしっかり見てくれます。

 

それがお互いが違う者同士ではあるものの、お互い人間であるということ。

『互いに何かを分かり合える、伝わり合える』そんな風に実感した瞬間でした。

 

それでは。