『社会人として』の前に『人として』あるべき姿勢についての個人的見解。
社会人になると多くのことを社会や周囲から求められるようになります。
こんな風に振る舞うべきだとか、こんなことが出来なくちゃいけないとか、最低限これは知っていないといけないとか。
全てを学校や大学で習得することは不可能で、社会に出てから色んなタイプの社会人を見て、一つひとつ勉強し覚えていくことになると思います。そんな中で『こんな人になりたい』とか『こんな人になりたくない』とか、社会人としての面と人としての面を見ながら自分の理想に近づいていくのではないでしょうか。
そこで、『社会人として』の前に『人として』。
数年後どんな人になっていたいですか?
職場や学校や所属しているところに、そういった理想の人はいますか?
それは一体どんな人でしょうか?
社会人として働くようになって、こんな僕でも曲がりなりに『数年後にこんな人になりたいな』とか『こんな人にはなりたくないな』とか感じたりすることがあるんです。
そこには頭の善し悪しとか、容姿の善し悪しとかは関係ないですし、自分よりも年上とか年下とか、そんなことも一切関係ありません。
仕事の面で、例えばこんなことを知っておきたいなとか、
人としての面で、こんな言葉を周りにかけれるようになりたいなとか。
もちろん、僕が『数年後になりたいなと思う人』を他の全ての人がなりたいと思うことはないし、僕が『こんな人になりたくないと思う人』は他の誰かから見れば憧れの人だったりするわけで。
ただ、なりたい人の要素は多種多様で、なりたくない人の要素はある程度決まってくるのではとも思います。そこで、何が良いか悪いかなんて分からないということを前置きに話したいのが、
人前で人をこき下ろす人
これに僕は絶対になりたくないなと思ったわけです。
そもそも『こき下ろす』とは…
『手厳しくけなす』『ことさら悪く言う』『無茶苦茶にけなす』等々。
調べると上記のような意味が出てくるかと思います。つまり、ただただ怒るのではなく、必要以上にけなすことの意味ですね。
社会人なんて世間から見れば、いい大人です。そんな社会人である人が平気で人前で他の人をこき下ろしている場面にこれまで何度も遭遇しました。
はっきり言って、見ていて良い気は全くしませんし、そこに関わる人全てが恥ずかしいものに見えてきます。
百歩譲って、それが大人同士の裏のやり取りなら構いません。ただ、もし学校現場で起きていたらどうでしょうか。生徒が見ている前で教師が他の教師をこき下ろしている姿はどのように周りに映るのでしょうか。
大人である他の教師は別に何のこともないように流すことが出来るかもしれません。しかし生徒はそういった場面を見たことから、『こき下ろされていた教師』への見方が変わる可能性が十分あります。これまで築き上げてきた信頼関係に少なからず影響があるのは間違いありません。
そういったことを踏まえると、『人前で人をこき下ろす』という行為がいかに危険であり、他の人から見て、いかに恥ずかしいことか、そういった場面に遭遇する度に再認識し、自分を改める反面教師になってくれているように思います。
『社会人として』の前に『人として』。
どうなりたい、どうなりたくないか。
今一度、向き合い見直すことの大切さを日々実感しているところです。
それでは。